■1.5章|2

 あたたかい日差しを浴びながら、広い泉で手足を伸ばし、入浴するのはとても気持ちいいものでした。病気で屋敷にいたときには絶対に体験できないことだと思い、恥ずかしくはあったけれど、ヴァッサーゴに感謝しました。
 チップはその様子を見ながら「ロウズちゃんって綺麗な女の子だな。サティさまにはかなわないけど」などと心の中で思っていました。
 泉から上がり、洗濯したネグリジェを着込んでいると、急にまわりの木々がざわざわと音を立て始めました。風が吹いているわけでもないのにまるで、生き物のように枝が激しく動いているのです。
 そのざわめきの音が次第に『帰れ、帰れ、帰れ』と言っているかのような幻聴をもたらしました。
「どういうこと」
 ロウズが不安げに呟くとヴァッサーゴは「これは……おそらく魔術がそうさせてるんだ」と言いました。
「ゲルダ、見てるんだろ?姿を現してくれよ」
 そうヴァッサーゴが叫んだとたん、泉の横の風景が、水たまりに石を投げ込んだかのようにぐにゃりと歪みました。風景の揺らぎが徐々におさまると、そこに質素な木造の家が忽然と現れました。
「やっぱり間違いない、ゲルダの家だ。500年前とちっとも変っていない。きっと魔術で隠していたんだ」
「ここにゲルダさんが住んでいるのね。でも、さっきの様子だと歓迎されていないのではないかしら」
「彼女は人間嫌いなところがあるからな。でも本当は優しい魔女なんだ。今はロウズの姿だから警戒されたのかもしれない。会えばすぐに俺だと分かるはずだ」
 そんなことを話していると「……騒がしいね。普通の人間ならさっきの幻聴で逃げ出すはずなんだが」とぼやく女性の声が家の中から聞こえてきました。
 キイ、と玄関の扉が開いたので、ロウズがドキドキしながら見つめます。姿を現したのは、真っ黒な服にとんがり帽子をかぶった、しわしわの小柄なおばあちゃん。

彼女はこちらを見るなり、青い目を丸くしました。ふたりの顔をまんじりともせず見つめています。
「ゲルダ、少し会わないうちにさすがに老けたな」
突然、ヴァッサーゴが悪びれもなくそんなことを言うので、ゲルダは目をつりあげ叫びました。
「お、お前に会ったことなどないよ。失礼な小娘だこと!……おや、あんた悪魔がついているのかい?」
 彼女がにじり寄ってきてロウズの瞳をまじまじと見つめます。
「ヴァッサーゴだ。覚えているか?500年前、よく人間界で一緒に占いの仕事をしただろう」
「ヴァッサーゴ……?ヴァッサーゴ!ああ、あんたか!ずいぶんひさしぶりだね。なんで人間界で少女なんかに憑りついてるんだい?精霊まで連れて。まあ、とりあえず家にお入り」
 旧友の存在に気づいたからか、ゲルダの表情と声音が柔らかくなります。
 彼女に促されるまま、家に足を踏み入れると木の優しい香りが全身を包み込みました。
 そこかしこに薬草がぶらさがり、本棚には瓶や古めかしい書物がぎっしりと並んでいます。その横にはお約束の箒も立てかけられていました。
「そこにお座り、じっくり話を聞かせておくれ」
ヴァッサーゴは敷物の上のクッションに腰をおろすと、これまでのことを丁寧に話し始めました。

 夜になり、ゲルダの家に橙色の明かりが灯ります。
「大変な思いをしてきたんだね。ほらあたたかいスープだよ」
「ありがとうございます、ゲルダさん」
 ロウズがお礼を言い、ヴァッサーゴがスープを一口飲むと、香りの良いきのこと濃厚なポテトの味が口に広がりました。
「おいしい!こんなにおいしいスープを飲んだのは生まれて初めてだわ」
 少年姿のチップも「うめえ!」と歓声を上げながら必死にスープを飲んでいます。
「ほほ、ありがとうね。人間は苦手だが、ロウズみたいに礼儀正しい女の子は嫌いではないよ」
 こちらを見つめるゲルダの瞳があたたかい。ロウズは自分の心の声が彼女に届いてることを嬉しく思い、それから亡き祖母と彼女を重ね、すこし切ない気持ちになりました。
「ゲルダ、相談がある。アナナスの魂の情報が得られるまで、ここに厄介になっても構わないか。俺もロウズも行き場がないんだ。もちろんゲルダのことはなんでも手伝う」
「そうだね……」
 彼女が考え込んでいる様子なので、ふたりはハラハラしながら返事を待ちました。
 ゲルダが、こちらをちらりと見つめます。
「よし、いいだろう。ただし、掃除と家畜の世話、冬は薪集めを担当してもらう。あと薬草採集やきのこ狩りを手伝ってくれたらこの老体にゃ助かるね」
「ああ、何からなにから何まで感謝します」
 ほっとしたロウズがお礼を言うとヴァッサーゴも続けて感謝を述べ、それから尋ねました。
「占いの仕事は?500年前と同じくまだやっているのなら、俺の未来視の力を貸すが」
「あれはとっくに廃業したよ。あんたも知ってるだろうけど、あの仕事で人間の嫌なところばかり見ちまったからね。時代も悪かったのかもしれないが、もう二度とやらないつもりだよ。今は薬売りが主な仕事さ。人と関わる仕事ではあるけど、占いよりは大分ましだね」
 また一緒に占いの仕事ができると思っていたヴァッサーゴは少し寂しそうですが、ゲルダは気にした様子もなくどこか楽しそうです。
「それにしても、いきなり孫が二人もできたみたいだ。明日からしっかり働いてもらうよ。人間界のこともたくさん教えてやろう。ふたりとも、仕事と勉強、覚悟するんだよ」
 ロウズとヴァッサーゴは「はい!」と元気よく返事しました。スープを飲むのに必死だったチップがあとから遅れて「オレも!」と言ったのでゲルダは大声をあげて笑いました。

 それから三人と魔女の共同生活が始まりました。
 日中はゲルダの手伝いです。チップははりきって埃の積もる棚に羽箒をかけ、ヴァッサーゴは雑巾で床を丁寧にふいています。
「おい、チップ。あんまり勢いよく羽帚をかけて、そこらの物を壊すなよ。ゲルダの家の棚は危険なものが沢山並べてあるんだから」
「わかってるよ〜。って、き、危険なもの?」
「ああ、たとえばお前の目の前にある不気味な仮面。壊してしまった者は何年も眠れない呪いにかかると言われている」
 昼寝大好きなチップは青ざめながら、サササと速やかに離れます。
「……じゃあ、これは?」
 チップが恐る恐る瓶に入った怪しげなキノコを指さします。

 キノコは紫がかった胞子を勢いよく飛ばしており、それを見たヴァッサーゴは震えながら言いました。
「忘却のキノコ。昔、うっかり蓋を開けたら、その胞子が一気に部屋に広がってしまったことがある。吸ったら大切な記憶が無くなってしまうんだ。ゲルダの魔法で記憶を取り戻せたから良かったものの、あんな体験は二度とごめんだ」
 チップは震え、顔を勢いよく横に振りました。
「サティさまのことを忘れてしまうなんて嫌だ!」
「よし、分かったなら慎重に掃除するんだぞ。掃除しにくい位置は、なでるようにはらい落とすといい。ほら、手本を見せるから羽箒を貸してみな」
 ふたたび棚の掃除にいそしむ二人の様子をロウズは眺めます。
(ヴァッサーゴ、まるで弟の面倒を見るお兄さんみたいね)
 チップに伝わってしまうと、弟扱いされることに拗ねてしまいそうだったので、こっそり心の中で呟きました。
「あら?」
 ロウズは、棚の奥に小ぶりな額が立てかけられていることに気づきました。ヴァッサーゴも気になり、取り出します。
 そこにはまるで写真のように精密な水彩画がはさまれていました。この家の前で、若き日のゲルダと活発そうな女の子が楽しそうに笑っている姿が描かれています。
「若いころのゲルダだな、懐かしい」
「ゲルダさん、美しいわね。こっちの金髪の女の子は……たぶん人間よね。誰なのかしら」
「分からない。俺が使役されていた頃には見かけなかったが。ふうん、少しだけロウズに似ているな」
 後ろから声が聞こえてきました。
「私の愛弟子だよ」
 振り向くと、どこか寂しそうな懐かしむような、複雑な表情をしたゲルダが立っていました。
「お弟子さんだったのね。私たち以外にもゲルダさんと一緒に暮らしていた人がいたなんて。どんな子だったの?」
「ふむ、気になるなら話してあげようかね。彼女のことは、何年経った今でもよく覚えているよ」
 ロウズの質問に頷くと、彼女は糸を紡ぐように、とつとつと語りだしました。

「彼女が家に訪ねて来たのは、ヴァッサーゴを使役する少し前のことだったかね。突然、『魔女の弟子になりたい』なんて言いながら、家の扉を叩くから当時はびっくりしたよ。彼女は魔法に憧れていたんだ。『魔法使いになって、厳しい情勢にある故郷の人々を、あらゆる厄災から守りたい』と強く願っていた。
『人間は簡単に魔法を使うことができないから無理だ』と言って追い返すのだけど、何度も何度も懲りずにお願いしてきてね。しまいにゃ、ひれ伏したまま動かないものだから、仕方なく折れて、弟子として家に住まわせることにしたんだ。魔法はてんで才能がなかったけれど、勤勉で、薬の知識はどんどん吸収していった」
 『薬』と聞いたロウズは、自然とアナナスの顔を思い出していました。『故郷の人々を守りたい』という夢も『病で苦しむ人たちを助けたい』と願う彼女と似ているような気がします。
 話を聞いているうちに、姿は自分に、性格はアナナスに似ているその女の子に親近感がわいてきたのでした。
「明るく働き者の良い子だった。当時、うちには複雑な事情を抱えた客が多く訪れていたのだけど、不幸を背負った人達を彼女は懸命に励ましてね。どんなに辛く悲しいときも、彼女が傍で笑うと、それこそ魔法にかかったみたいにすうっと心が晴れていくんだ。本当に、素敵な女の子だったさ」
 嬉しそうに語るゲルダを見て、ヴァッサーゴは目を丸くします。
「へえ、人間のことを好意的に語るゲルダなんて珍しいな。その弟子はどうなったんだ?魔法使いになって巣立って行ったのか?」
 ゲルダは彼の質問を聞くと、辛そうに顔をゆがめ、目を伏せて呟きました。
「弟子にしてから一年目だったか。彼女の故郷で戦争が起きてね。故郷の人々を心配した彼女は、自分が作った薬を鞄や袋にたくさん詰め込み『戦争が終わったら絶対ここに帰ってくるから』と言い残して、去っちまったよ。来るときも去るときも嵐のような子だったねぇ」
 ゲルダは目を細め、額の表面を丁寧に撫でました。
「旅の絵描きが描いてくれたこの絵を眺めながら『まだか、まだか』と彼女の帰りを待ち望んでいた。義理堅い子だったから、絶対に戻ってくると信じて。もう遠い昔の話だ」
 それから小さな、本当に小さな声で呟いたのでした。
「あのとき、私が『行くな』と止めていれば……」
 震える指先が、愛弟子が帰ってこなかったことを物語っていました。
 ロウズとヴァッサーゴとチップは胸がつまって、声をかけることが出来ませんでした。

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