■1章|12

 事件が起きたのはその日の夜です。
 アナナスが就寝のためベッドに入ろうとした時、どこからか焦げた匂いが漂ってきました。外からのようです。
「この匂い……もしかして!」
 急いで窓を開けると目の前を黒い煙が覆い、鼻の奥をつんと刺激しました。

 痛む目をなんとか開き、煙が流れてくる下方へと視線を移すと、離れの研究室が赤い炎を高く舞い上がらせ、轟々と燃えていました。
 アナナスは錯乱し「研究室が燃えている、誰か来て!」と叫び、勢いよく家を飛び出しました。
 煙が気になってきたのでしょう、門の前に町の人が数人駈けつけてきました。
 アナナスは玄関にあるバケツを取り、庭にある池から水をくんで研究室に向かおうとしました。
 予想外の重さにふらついたとき、バケツを横から素早く取り上げる者がいました。司祭のグレンです。彼の教会はアナナス家の近隣にあるので、煙を見て駆けつけてきたのでしょう。

 燃え広がることを危惧したのか、グレンは真剣な様子で「ここは私が引き受けますから、あなたは町の人たちに水を持ってくるよう指示してください」と言い、バケツの水を炎に向かって放ちました。
 教会がすぐそばにある彼にとっても、対岸の火事ではないのではないのだろう、と思いました。
 アナナスは「任せます」と短く言い、踵を返して町の人たちにお願いに走りました。
 数時間後、町人の協力で火は消し止められたものの、研究室は屋根も柱も壁も黒く煤け、ほとんど形を留めていません。
 研究室の中には新薬と、薬の生成方法を入念に書き記した書類が一式管理されていました。苦労して作り上げた薬と生成法。しかしそのすべてが灰となり、消えてしまいました。
(夢でしょう……誰か、夢だと言って……)
 少し触れただけで、一気に崩れ出しそうな焼け跡を、アナナスはただ虚ろな表情で眺めているしかできませんでした。
 その後、警察が調べにやってきました。
「今回の件、放火の可能性があります。アナナスさん、何かお心当たりは?……アナナスさん?」
 警察の質問にも、アナナスは口を開くことができませんでした。精神的疲労感が襲い、はっきりしない意識の中、ぼんやりと思います。
(もしかしたら、自分を付け狙う者の仕業かもしれない。ずっと感じていた気配は気のせいじゃなかったんだ)
 しかしアナナスは犯人への憎しみより、薬を失ったショックのほうが大きく、心ここにあらずという様子でした。

 次の休日。
 塞ぎ込み、祭儀に出席できなかったアナナスの元へ、司祭グレンがやってきました。

「昨日は大変でしたね。今日は、祭儀を欠席されていたので心配になって来ました。少しの時間、アナナスさんのためにお祈りさせていただけないでしょうか」
 何か大切な研究をしていたことはグレンも知っていたのでしょう。彼なりの気遣いなのだと察したアナナスは(いつも町人と最低限の付き合いしか見せない彼にしては珍しい)と思いながら部屋に招きました。
 グレンの祈りの言葉を聞きながら、アナナスはどこか遠くを見つめています。
 彼は少し困った顔でため息をつき、コートの内ポケットからペンダントを取り出し、彼女の首にかけました。
「本当は司祭だけが持てるものなんですが、特別に。ご加護がありますように」
 そう言って優しく微笑む彼から受け取ったペンダントを見て、すこしだけ驚きました。ロウズにあげた、友情の証と同じ型の品だったからです。
 三カ月前、枯草に寝ころぶロウズにペンダントを渡したことを思い出します。

 アナナスは、普段とは違うグレンのことを不思議に思い「なぜ私にだけここまでしてくれるんですか」とつい質問してしまいました。そしてすぐに(余計なことを言ってしまった)と気まずそうに目を伏せます。
 普段の様子を見られていたのか、といった表情でグレンは目を見開き、答えに迷ったのかしばしの沈黙が訪れました。
 そして、ようやくアナナスを見つめたあと、いつもの演技を捨て
「なぜでしょうね。あなたがどことなく妹に似ているので、放っておけないのかもしれません」
 と、飾り気のない表情で返しました。彼の素顔を初めて見た気がしました。やはり仮面だったのか、とは思いましたが、まったく隠す気がないのであっけに取られました。
 優しい偽りの姿より、なぜか嫌な感じはなく、アナナスはその流れのまま「妹さんてどんな人なんですか」と聞いてしまいました。
「あなたと同い年の、活発な妹です。勉強好きで頭の良い子ですよ」
「じゃあ、今受験生なんですね。私も秋の入学を目指してるんです」
 いえ、それは。とグレンが言葉を濁すので、アナナスは疑問に思いました。
 彼は少し迷った様子で「僕の家は貧しくて通わせるだけのお金がないのです。妹は大学には興味ない、と言っていますが強がっているのでしょうね」と続けました。
 それを聞いたアナナスは胸が痛みました。
小さいころから家柄に恵まれ、好きな研究をさせてもらい、なにひとつ不自由なく育ってきた彼女。高校も名門、大学への進学も当たり前で、貧しい人がいることまで考えていませんでした。
 悪いことをしているわけではないのに、恥ずかしい気持ちになり、視線をそらしました。
 その様子を見て、グレンはまた苦笑します。
「別に責めていませんよ。世の中は平等ではありません。どうしようもないことで溢れているのが当たり前です。そういういうとき、人によっては神々の救いが必要になってくるんですよ」
 まるで便利な道具でも紹介するように、グレンは気軽に言いました。
(だから彼は司祭になったのだろうか)とアナナスはぼんやり思いました。
「さて、僕はこれから用事があります。慌ただしくてすみませんが、失礼します」と席を立ち、去っていくグレンの背に「今日はありがとうございました。ペンダント、大切にします」とお礼の言葉をかけました。
 グレンが去ったあと「いつも忙しくしている彼のことだから、ロウズたちのことにまで気を配れないのは、何か事情があるのかもしれない」と考えを改め直しました。

11 13

もどる

 

inserted by FC2 system