■1章|18


 「きゃあ!!!」
 重たく暗い雨空を、放心したまま見上げるロウズたちのすぐそばで、女性の悲鳴が聞こえました。イシアイから解放され、意識を取り戻したマリィのものでした。
 彼女が見た光景。
 それは首を切り裂かれ地面に倒れたアナナスと、血に濡れた剣を片手に、妖しげに目を光らせるロウズの姿でした。そこに病気で伏せっていた弱弱しい彼女の面影はありません。
「ロウズお嬢様、なんてことを」とマリィは震える声で言い、後ずさります。
 目の前の凄惨な光景に、彼女に悪魔が憑りついてアナナスを殺したとしか考えられず「誰かきてください。助けてください、司祭さま!」と叫びながら町のほうへと走って逃げていきます。
「違う、これは」そう言って追いかけようとしたとき、ヴァッサーゴは頭上に禍々しい気配を感じ、総毛立ちました。
 大きな黒い鷹が何かを探すように旋回していました。この鷹には見覚えがあります。
 魔界で兄のアガレスが使役していた使い魔です。

 この鷹は逃亡者を見つけだし、魔界に連れ戻す力を持っていました。掟を破って人間界に逃げてきたヴァッサーゴを探しにきたのだと、すぐに理解しました。
(俺が結界から出たから、気配を察して嗅ぎつけてきたか。この姿のまま捕まって連れ戻されてしまえば、まずいことになる)
 掟を破って魔界を出て行ったうえ、人間まで連れ帰ったと王やアガレスに知れたら、ロウズも無事ではすまないでしょう。かといって憑依を解き、殺人犯と疑われたままの彼女を置いて逃げるわけにもいきません。
 なにより、ロウズから離れたら、また病気の彼女に戻ってしまうのです。憑依したときの全身の痛みを思い出し、またそんな目には合わせられないと思いました。
 鷹のぎらつく目がこちらに向こうとしています。
(逃げなければ)
 そう思ったときにはもう体が動いていました。
 落ちていたエペタムの鞘をすばやく拾い、バラ園を一気に駈け抜け、町から出て奥にある暗い森の中に入っていきます。
 流れていく景色の中、ロウズの視界に血に濡れたメダルが一瞬だけ映りました。

 大樹の影に隠れ、鷹のことを説明し終えたヴァッサーゴは「ロウズ、すまない」と悔しそうに謝りました。
 アナナスを救えなかったこと。憑依した姿を他の人間に見られ、アナナスを殺したと勘違いされてしまったこと。
 ヴァッサーゴにたくさんの罪悪感が押し寄せてきます。
 さきほどから様々なショックで口を開けなかったロウズがやっと返事をしました。
「いいえ、ヴァッサーゴは何一つ悪くないわ。私が勝手にお願いしただけだもの」
 協力してくれてありがとう。大変なことに巻き込んで、ごめんなさい。そう言う彼女の声は消え入りそうでした。
 そして「アナナス……」と押し殺した声で呟いた後、しばらくの沈黙が続きました。
 彼女と心を共有しているヴァッサーゴは、ただ絶え間なく続く胸の痛みを受け止めるしかできず、無力感に打ちひしがれるしかないのでした。

 大粒の雨が、葉や土に打ちつける音だけが聞こえてきます。その時間が長かったのか短かったのかわかりません。
 突然ロウズに、ヴァッサーゴ、と名前を呼ばれました。何かに気付いたのか、焦ったように「私からすぐに離れて」と頼んできました。
 数時間後にでも司祭グレンや教会関係者がロウズ達を探しにやってくることでしょう。捕まれば悪魔祓いが行われ、ヴァッサーゴはまた牢に幽閉されてしまいます。
「せっかく自由の身になれたのだから、早く逃げて。あなたひとりなら司祭や鷹から逃げられるわ」と必死に訴えかけてきます。
 アナナスが死に傷ついているというのに、自分を気遣う様子にヴァッサーゴは胸が痛みました。
 しかし、ロウズから離れると、彼女の身体は不老不死ではなくなり、病気が進行してしまいます。ロウズを通して感じた全身の痛み。あの様子では、先は長くないと感じました。
 アナナスが死んだことで、治療薬が完成する未来も潰えてしまったのです。
 彼女はもう助からない。
 大切な友が死んでしまうと分かっているのに、そんなことはとても出来ません。
 残酷な現実を一気突きつけられ、寒気立ったヴァッサーゴは、頑なに拒否しました。
「いやだ。俺が離れればロウズは……」
「もういいの、もうじき死ぬはずだった身体だから、未練はないわ」
 気丈に答えたその内容とは裏腹に、ロウズの声は震えていました。
 一息おいて「私の人生はアナナスが全てだった。すぐに彼女に会いにいけると思えば怖くないわ」と弱弱しく言い切りました。
 とつぜん頬に涙が伝いました。
 悪魔には涙が流せないので、これはロウズの感情がもたらした涙なのだとヴァッサーゴは思いました。
 体中に湧き起こった感情、それは死への恐怖でした。
 ヴァッサーゴは気づいていました。ついさっき、親友の無残な死を目の当たりにした彼女の心が、ずっと慄いていることを。
「本当は死にたくない」と心の奥底で叫ぶ、彼女の想いが痛いほど伝わってきます。

 涙を流しながら、ヴァッサーゴはロウズと出会った頃のことを思い出していました。
 蜘蛛の巣が幾重にもはった、薄暗く冷たい牢屋の中。誰からも忘れられ、悪夢に沈むだけの日々を何百年と繰り返していたヴァッサーゴに、ひとりだけ優しく声をかける少女がいました。
 一筋のあたたかい光のようでした。
 それから3年間、彼女の微笑みはヴァッサーゴの凍てついた心を照らし続けてくれたのでした。
 ロウズは、牢から出られないヴァッサーゴのために、一生懸命いろんな話をしてくれました。ある時は親友から聞いた楽しい出来事を。ある時は彼女のまわりで起こった不思議な体験談を。どれも興味深く面白い話ばかり。こんなに心から笑い、楽しく思えた日々は何百、いや何千年ぶりだろうと思いました。
 病気を患い、奇妙な力を持つゆえに町の人々から嫌われて、ひとりぼっちのロウズ。
 唯一、心をゆだねることができるのは、親友のアナナスだけだと言います。
 ヴァッサーゴは思いました。いつかアナナスのように、自分が彼女の心を照らせる日はくるのだろうか、と。その日が来るのだとしたら、牢から出て傍に寄り添えるようになった時だと考え、現実になるように願いました。
 だって、微笑む彼女のことが大好きだったのですから。

 あたたかい涙は彼女がまだ生きたいと願っている証。そう理解したヴァッサーゴは深く息を吸い、前を見据え、覚悟を決めました。
 静かに立ち上がり、口を開きます。
「ロウズ、俺は君から離れるわけにいかない」
 アナナスを救えなかった罪の意識もあったのかもしれません。しかし、それ以上に大切な者を失いたくなかったのです。
 彼女がいなければ、ヴァッサーゴは牢の中で死んだも同然の毎日でした。
 ロウズが会いにきてくれるおかげで、生きる希望を見いだせた。今度は、自分が彼女を救う番だと思いました。利己的かもしれないけれど、今はそれでいいと思いました。
「もしかしたら今後、治療法が見つかる可能性だってある。いや、自分たちで探すんだ。生きている限り望みはきっとある」
 ヴァッサーゴが突然放った言葉の数々に、ロウズは驚き、困惑しました。
 彼女の心から大きな動揺と、生に対するわずかな希求が伝わってくるのを、たしかに感じました。
 やはりロウズは生きたいと願っている。ならば、その望みを叶えたいと思いました。
「もうこの土地には戻れないかもしれない。アガレスが俺を探しているから、すこし過酷な旅になるかもしれない。それでも治療法が見つかるまで、君の身体を守り抜く」
 そう誓い「だから、生きてくれないか」と力強く懇願しました。
 また涙が流れてきました。
 彼女から返事はありませんでしたが、今度湧き起こった感情はあたたかく、ヴァッサーゴが初めて体験するものでした。

 その時、また頭上から羽音が聞こえてきました。アガレスの鷹が迫ってきたのだとすぐに気づきます。
 ゆっくり話し込んでいる場合ではありません。今は鷹や司祭から逃げきるのが先決だと感じ、ヴァッサーゴは南に向かって走り出しました。
 ひたすら足を前に出します。彼らに見つからないよう、もっと遠くへ。

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