■1章|20


 天界の門に戻ったサーリはアズリの胸に抱きつきました。
「怖かった。アズリが無事でほんとうによかった。」
 そう言い、泣きじゃくるサーリの頭をアズリは優しくなでました。
 普段は気丈な態度を見せていますが、誰よりも兄のことを大切に想っているのです。
「サーリ、助けに来てくれてありがとう。おかげで任務を遂行できた」
 アズリは感謝を述べ、それから「イシアイ、あとは頼む」とアナナスの魂が入った小瓶をイシアイに渡します。
 彼は頷くと「確かに受け取った。これから上層部へ魂を届けに行く。今回のことを報告もしなければ」と虹色の空をとんでいきます。
 神々は天界のさらに上層に住んでいました。
 上空に浮かぶ古の神殿を見上げ、アズリは妙な剣を操る少女のことを思い出していました。
 あのような体験は初めてでした。下手をすれば、自分どころか大切な妹まで死んでいたかもしれない。今更ながら冷や汗が流れてきました。
 アズリたちは、戦に赴く天使たちとは違い、特別な訓練は受けていません。魔界の生物にくらべ、人間界の生物は大抵が弱く大人しいものだと教えられていたからです。
 まわりでは『アズリたちは過酷な訓練を経験した、冷酷非道な狩人だ』などと噂されていましたが、まったくのでたらめでした。
 それでも、暗殺者としてそれなりの戦闘訓練は積んできたので、己の力を過信していました。今後は妹に怖い思いをさせないためにも、改めて人間について勉強し直す必要があると思いました。
 サーリは「ねえ、アズリ。あの時あたしがとった行動、上層部には内緒にしてて」と不安そうに漏らしました。
 あの時の行動。サーリが鎌で少女を切りつけようとしたことです。
 ふたりが持つ鎌―――ハルパーで直接人間を傷つけることは、天界での規範に違反していました。ハルパーは殺人としての武器ではなく、魂を刈る神聖な道具。その前提で神から与えられたものだったからです。

 天使も神も人間を加護する立場で居続けなければならない。天界での古くからの決まりごとでした。
 ですから、殺人を含め、人間への干渉は必ず依代を通して行わなければなりませんでした。武器も人間界のものでという規約です。ふたりとも、その縛りが時に煩わしく感じることがありました。
 アズリは以前「どうして決まりを破ってはいけないのか」と勇気を出して上層部に尋ねたことがありましたが、答えは返ってきませんでした。
 天使たちの間では一部の神のみが、その真実を知ると噂されています。
 今回のサーリの行動は厳しい刑罰に問われるものでしたが、兄としてもそれは避けたいと考え、心配する妹に穏やかに言いました。
「もちろん内緒にしておく。サーリだって身の危険にさらされていたんだ。今回は仕方がない。でも、あんなことは二度とするんじゃない。まずは冷静にその場から離れることを考るんだ」
 サーリは落ち込んだ様子で顔を伏せうなずいたので、アズリは苦笑します。
「もともとは私の失態が原因だから、偉そうに説教できる立場ではないな。ジルの体も傷つけてしまったし、彼にも申し訳ないことをしてしまった。後から町に戻って、謝罪へいかなければ」
 サーリはうつむいたまま口をとがらせます。
「もう終わった仕事なんだから、依代のことなんてほっとけばいいのに」
「サーリはもっと依代を大切にあつかった方がいい。ジルを通して新聞を見たぞ。お前が体を借りた男子学生が捕まったそうじゃないか」
「あれはその……殺した後、捕まらないように逃げようと思ったよ。でも、あいつの意識があたしの中で暴れ出したから、今回は仕方なく現場で依代から離れざるを得なかったの」
「今回も、だな。そもそも、暗殺の前に手袋はしたのか?羊の毛と革で作った靴は履いたか?あれは足音を吸収して足跡もつきにくい。使った武器や証拠品になりそうな物はすべて処分するんだ。どうしても処理が難しい場合のみハルパーで消滅させる。それと……」
 いずれも出来ていなかったサーリはしょぼくれて呻きました。
「うぐ、さっきお説教はしないって言ったばかりなのに」
「あれとこれとは別だよ。サーリは暗殺の意味をもう少し考えるんだ。依代に罪をかぶせず遂行するまでが、私たちの仕事なのだから」
「う……はい。たしかに、そのとおり」
 力なく返事する彼女に肩をすくめました。
「それにしても、あいつ……」
 サーリが小さな声で呟くので「どうした?」とアズリが話を促します。
「あの奇妙な剣を持った女の子。どこかで見たことがある顔。どこだったか思い出せないけど、前にも会ったことがある気がするの」
「なんだって。一体どこで」
「魂集めで人間界に降りたときだと思う。あの地域を担当していた時期もあったから。でも、そのときはあんなに怖い人間には思えなかった。彼女、何者なんだろう」
サーリは生まれて初めて命の危険にさらされたことから、精神的に疲弊している様子でした。アズリはまだ震えが止まらない彼女の背を撫でながら言います。
「あまり思いつめるなよ。今後はきっとイシアイ達が彼女をマークするはずだから安心しろ。私たちは今まで通り任務をこなしていけばいい」
「うん……」
まだ気になるといった様子のサーリをアズリは心配そうに見つめます。
 それから、懐から一冊の古びた書物を取り出しました。そこには全ての生者の名が記されています。アナナスの名前がすうっと消えていくのを確認しながら、ようやく今回の任務が完了したのだと安堵のため息を漏らしました。

 ヴァッサーゴはまたあの悪夢を見ていました。
 戦で大勢の仲間が天使たちによって殺されていく、長い長い夢です。
 彼らは光り輝く武器で次々と魔界の者を目の前で切り裂いていきます。ヴァッサーゴは仲間の生温かい血しぶきを頭から浴び、ぬるりとした感触とむせかえる匂いに眩暈と吐き気を起こしました。こんなことは嫌なのに、殺されたらその数だけ、兄のアガレスが悪魔や魔物を引き連れてやってきて、彼に指揮を任せるのです。
 そして、また力及ばず、無残に殺されていくのでした。
 ヴァッサーゴは目の前の凄惨な光景に震え、背を向けて逃げ出しました。
(もう戦には関わりたくない)
 その想いとは裏腹に、王から命令を受けたアガレスが、逃がすまいと大きな黒い馬に乗って追いかけてきます。

「ヴァッサーゴ、わが愚弟よ。一度ならず二度も過ちを犯そうというのか」
 そう叫ぶ彼の手には大きな槍斧。
 ヴァッサーゴのすぐそばまで近づいてくると、槍斧を大きく振りかぶり彼の腕めがけて勢いよく振り下ろしました。
 血しぶきをあげ、片腕が後方に飛んでいきます。あまりの苦痛にヴァッサーゴは肩をおさえ地を転げました。
「次は足だ」馬から降りたアガレスは間髪入れず刃を入れ、今度は片足をもぎ取りました。
 つんざく悲鳴をあげるヴァッサーゴの横でアガレスがせせら笑います。
「父上は甘すぎた。あの女神を庇った時点で、お前にもっと厳しい刑罰を与えておくべきだったんだ。仮面をかぶせるだけではまったく懲りていないじゃないか」
 ヴァッサーゴが呻きながら睨み付けた次の瞬間、痛みが消え、腕も足も元通りになっていました。不老不死の体がそうさせているのです。
「もう一度だ。お前が反省するまで、何度でも切り刻んでくれる」
 アガレスは冷酷に言い放ち、また片腕に槍斧を振り下ろすと血しぶきが上がりました。
「永遠に戦い続けろ。お前は俺の駒なのだから」
(永遠にこのままなんて、いやだ。逃げなければ。どこか、遠くへ……)
 うなされ、汗をかきながらはっと目を覚ますと、そこは薄青の世界でした。まだ夜明け前のようで、朝もやがかかる森の風景を見回します。雨はすっかり止んでいました。

 鷹から逃げている途中で疲れ果て、いつのまにか眠りに落ちてしまったのだと気が付きました。
 視線を落として自分の体を確認すると、華奢な少女のものでした。そういえば今はロウズに憑依しているのだ、と思い出します。
 汗が引くと急速に体温が奪われはじめ、ぶるりを身を震わせました。霊体のときはさほど感じなかったのに、人の体だとすみずみまで感覚が研ぎ澄まされているようで、朝の寒さが身に染みました。
 同じように寒さを感じているであろうロウズのために、火を起こしたいと思いましたが、追手に気づかれる可能性があるため、その考えは捨てました。
 さっきからまるで一人きりのような感覚があり、ロウズが本当に自分の中にいるのか、ヴァッサーゴは不安を覚えます。
「大丈夫よ……ここにいるわ」
 彼の思考が伝わったのか、彼女は力ない声ではありますが返事をくれました。ヴァッサーゴはほっとします。
「良かった。どうやら鷹からは逃げ切れたみたいだ。まだ油断はできないが」
「ねえ、ヴァッサーゴ、さっきの夢は……」
 体や意識を共有しているので、彼と同じ夢を見てしまったロウズは、気になって尋ねました。
「みっともないところを見られてしまった。魔界にいた頃の、戦の夢だ」
 すこし疲れたような表情で答えるヴァッサーゴに衝撃を受けました。出会って三年間、戦の話を彼の口から聞いたことがなかったからです。
 ですから、ずっと『窮屈な城から抜け出してきた自由奔放な王子様』程度のイメージしか持っていませんでした。
 重苦しく悲しい夢。彼はあの戦の連鎖から逃げ出してきたのだと、このときはじめて知ります。
「知らなかった……大変な思いをしてきたのね。」
 ロウズは天使があんなに怖いものだとは知りませんでした。
 魔界の者と対峙する彼らは、教会で教えられていた優しく神聖な印象とはずいぶん違います。
 大きな鎌を持ち、襲い掛かる天使の少女を思い出すと、また恐怖がこみ上げてきました。
 そしてヴァッサーゴの兄、アガレスが改めて恐ろしい人物だということも分かり、身を震わせました。
 そういえば、エペタムにとり憑りついている蛇の使い魔のことも聞いていなかった。そこで、自分の前では、あえて血なまぐさい話題を避けてくれていたのだと気づきました。
 いつも明るく楽しい話しかしていなかったヴァッサーゴ。彼にはまだまだ自分の知らないことがあると思うと、同じ体を共有しているのに、どこか遠くに感じました。
 ロウズの寂しさが伝わったのか、ヴァッサーゴはその気持ちを振り払うように明るい口調でこう言いました。
「でも、今後は隠し事はできないな。もちろん、ロウズだって」

 そう言って屈託なく笑う彼に、少し気持ちが和みました。
「そうね……私たちは一心同体だもの。隠し事はできないわ」
 そう思うと、とたんにむず痒い気持ちになってきました。何もかも他人にさらけ出すというのは、とても恥ずかしく、勇気がいることです。とくに、他人とは距離を置いてきたロウズでしたから、それが恐ろしくもありました。
 いろいろと思考を巡らせます。
 丸裸の自分を知ったら、ヴァッサーゴは私のことを嫌いになってしまわないかしら。私は彼みたいに強くない。気が弱くて消極的。自信もなくて、まったく正反対の性格と言っていいと思うわ。
 ああ、裸と言えば、体を洗うときはどうなるのかしら。今まではメイドさんが世話をしてくれていたから良かったけれど、これからは彼と一緒ということよね。悪魔とはいえ、男の人に裸を見られたり触られたりするのは困ったことになるわ。
 と勝手にあれこれ想像して、顔を青ざめたり、赤くしたりしています。

 せわしなく変化する体温をどこか可笑しく思いながら、ヴァッサーゴは言いました。
「今日は俺の夢を見たから、明日はロウズの夢を見たい。人間はどんな夢を見るのか、ずっと興味があったんだ」
「え、私の夢……」
 そう言われてどきりとし、明日は楽しい夢を見られますように、とロウズは心の中で祈りました。
 ヴァッサーゴはそんな彼女を自分の中に感じつつ、「すっかり、生きていく気持ちになっているようで、良かった」と安堵しました。
 ロウズは、いつの間にか彼のペースにはまっていることに気づきましたが、そのおかげで幾分心が軽くなっていました。
 瞬時、ふ、とアナナスの死に顔が脳裏をかすめましたが、すぐに強引にかき消しました。思い出すと、自分の心が真っ暗な底なし沼に引きずり込まれそうで、恐ろしかったのです。
 ロウズはいまだに気持ちの整理がつかず、彼女の死を受け入れられずにいました。今からでも屋敷に戻ってベッドに横たわっていれば、彼女が扉を開けて元気よく遊びにきてくれるのではないかとすら思えました。
 しかし、戻るのはとても怖いことでした。戻ると、現実を突きつけられる。胸にかすかな疼きを覚え、震えます。
 ロウズは心の奥底では、昨晩起こった出来事を痛いほど理解していたのですから。

 彼女の心中を察したヴァサーゴは、悔しそうに呟きます。「あの天使は何を考えてあんなことを……」
 アナナスの命を無慈悲に奪っていったアズリという天使。なぜ彼があのようなことをしたのか、ふたりは分からないままなのでした。
 その時です。
「見つけましたよ」
 背後から声がしたので反射的に振り返ると、銃口をこちらに向ける若い男性の姿が目に映りました。

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